元岡遺跡群 福岡市西区桑原字戸山
福岡市教育委員会文化財部
大規模事業等担当元岡遺跡調査事務所

819-0385 福岡市西区元岡474-1
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福岡市西区元岡遺跡群

福岡市西区の元岡遺跡群の第20次調査で発見。

福岡市西区の九州大学移転用地内で、元岡遺跡群の発掘調査を進めている同市教委は10月23日、古代の役所が存在したことを示ず多数の木簡が出士した、と発表した。木簡には律令制度の最初の年号である「大寶(宝)元年」(七○一年)の記載があるものや、朝廷が、延暦四(七八五)年に全国に発した勅含の一部もあった。
「大寶元年」の木簡は、年号が記載されたものとしては国内最古。
木簡は奈良時代から平安時代にかけての14点で、九大移転用地の東側にあたる第二十次調査地点のため池から出土。周囲で古墳時代後期や奈良・平安期の遣物のほか、倉庫群とみられる掘立て桂建物跡、製鉄に使う鍛冶炉などが見つかつている。

「大寶元年」の木簡

大寶元年辛丑十二月廿二日
□□□□□鮑□□□代税
官川内□□黒毛馬胸白

狩野久・京都橘女子大教授(日本古代史)の話
「大寶元年」銘の木簡は飛鳥でも出土していない。文字のうまさも特徴的で、官僚機構が整い始めたばかりの時期にあれほど字が書けたのはかなり上級の役人だろう。
嶋郡と大宰府、あるいは都の役所との強いつながりを感じる。

荷札や公文書として用いられる木簡は、大宝律令の施行(七○一年)を機に、年を干支から年号の記載に切り替えたとされる。今回見つかった木簡の一つには両面に墨書があり、片面に「六人部」、もう一方の面に「大寶元年辛丑十二月廿二日□□□□□鮑(あわび)□ □□代税官川内□□黒毛馬胸白」(□は判読不明)の記載があった。
これらは納税の際の物品名や運搬する馬の特徴で、関を通週するための通行手形とみられる。市教委は「大寶元年の記載によって、律令制度の開始後すぐに、元岡遺跡群がある古代の嶋郡(現在の福岡県志摩町一帯)でも年号が使われたことが分かる」と説明。
嶋郡が朝廷にとって極めて重要な場所だったか、律令制度が短期間に全国のすみずみまで浸透した可能性を示すという。
また、「延麿四年六月廿四日」の木簡には、世帯数や家族数を示す「計帳」の文字も併記。平安時代中ごろの文献「類聚三代格」(るいじゅさんだいきゃく)には、律令制度に基づいて朝廷がこの日、全国に世帯調査徹底を命令したとの記述があり、木簡の内容と合致する
(2000/10/24 西日本新聞記事)


製鉄管轄の役所が存在?

九大移転計画に影響も

九州大学転予定地の元岡遺跡群(福岡市西区)で国内最古の「大寶元年」の年号を記載した木簡などが出土したことは、文献史学で指摘されてきた古代の「嶋郡」(現在の福岡県志摩町一帯)の重要性を物証で裏付けた。同遺跡群では大規模な古代の製鉄遺構も姿を現しており、古代国家にとって朝鮮半島情勢をにらむ重要な位置を占めていたことを物語る。
大規模な製鉄施設を管轄した特殊な「役所」が存在した可能性も高く、今後の調査が待たれるが、第二十次調査地点(25000平方メートル)のうち調査の手が入ったのはまだ5分の1以下。今後の調査で遺跡の全容が明らかになっていけば、九州大移転計画にも少なからぬ影響を及ぼしそうだ。

日本書紀によると六○二年、朝鮮出兵にむけて二万五千の兵が筑紫の嶋郡に駐屯。白村江の戦い(六六三年)で敗れた後も二度出兵が計画されており、嶋郡が継続的に軍事拠点となっていた可能性は高いという。
元岡遺跡群は鉄生産に必要な砂鉄と水が豊官で、八世紀前半ごろとみられる30基以の大型製鉄炉跡が出土。

愛媛大教授の村上恭通助教授(考古学)は「短期間に集中して固形式の製鉄炉を設けたのが特色。大量の鉄を作る急を要した事情があった」と推測する。

第二十次調査地点では、ちゆ甲冑を貫ける鋭利な鉄製やじりが数種出土。武器を生産していたとの見方もある。今回見つかった木簡には、正倉院文書の中に現存する最吉の戸籍「筑前国嶋郡戸籍川邊里」(かわべり)に見られる「難波部」(なにわべ)「額田部」(ぬかたべ)などと一致する人名もあった。川邊里は同遺跡近辺の古地名とされる。古代の大家族制の様相を記す貴重な戸籍と一致する木簡の記述は、須恵器や士器、げた、おけ、くし、琴柱(ことじ)(琴の弦を張る道具)といった遣物とともに、当時の暮らしをしのばせる。

元岡遺跡群はこれまで役所跡とは推定されていなかったが、第二十次調査地点では、役人の職名などを記した墨書土器、硯(すずり)役人が身につけた帯金具も出士。八木充京都学園大教授(日本古代史)は「大宰府との関係や外交施設である鴻腫館との役割分担も考えるべきだ」と指摘する
(2000/10/25 西日本新聞記事)


出るか大型建物

大規模製鉄を営んだとみられる九州大学移転予定地の元岡遺跡群(福岡市西区)で、年号記載の木簡としては国内最古の「大寶(宝)元年」(七○一年)木簡が出土し、注目されている。
中央政権との強いつながりは、ともに見つかった「勅令」を伝える木簡にもうかがえる。都から遠く離れた北部九州にあった古代の「官営製鉄所」、その姿を徐々に現し始めた補本格的な「役所」遺構発掘の可能性も高く、秘められた歴史解明の期待が膨らむ。

元岡遺跡群が古代の鉄生産の一大拠点と判明したのは、昨年度の調査で八世起前半の大型製鉄炉跡が約三十基見つかったからだった。文化庁は今春、九州大学を通じて福岡市教委に、予定地一帯に分布する製鉄遺構の全体像把握を指示。その結果、志摩町側ニカ所を含む十力所で、鉄生産の痕跡とみられる鉄滓(てっさい)や焼土が確認された。


「大寶元年」の木簡が出た第二十次調査地点もその一つ。製鉄遺構を求めて発掘を進めるうち、木簡をはじめ古代の「役所」の存在を裏付けるすずりやはかりの重りが次々に見つかった。今月中旬に発掘が始まった他の調査地点には、鉄滓の黒々とした塊がいくつもあり、元遣跡群での鉄生産の工程を知る手がかりとなりそうだ。


第二十次調査地点の面積は二万五千平方メートルで、調査はまだ五分の一も終わっていない。役所の標準的な規模である方一町(108m)を上回り、福岡市教委が「何らかの大きな建物跡があるのは確実」とみる平地は手つかず。

小田富士雄・福岡大学教授(考古学)は「まだ調査は入り口という感じだ」と現地で感想を語つた。


木簡に残る文字は、時代や社会状況を示す動かぬ証拠で、全国の発掘現場では「お宝」として重要視されている。第二十次調査地点の「延暦四年」(七八五年)の木簡は、記載されている月日と内容が文献資料に残された「勅令」と一致した。全国でも極めて珍しい発見に、学者ら一様に驚いた。

元岡遺跡群は「お宝」の木簡が、今後も続々と出士する条件を備えている。一つに、後世の開発の手があまり入っていない点が挙げられる。第二十次十次調査地点の木簡は、幸運にも現在の地表からわずかご30から120cm深さで見つかった。そして豊富な水だ木簡は水に浸った状態でないと残らない。平和台球場跡地の「鴻艦館」跡ではトイレ遣構の穴から見つかつている。木簡だけでなく、1200年以上前の鉄製やじりも、水に包まれたことが錆の進行を遅らせ、手でさわれるほどの状態で残っていたという。古代では製鉄に使われた水が、今に足跡を残す“保存液“になつたわけだ。

元岡遺跡群の大規模な官営の製鉄施設」は、九州全域を統括し、大陸との外交、軍事をつかさどった「大宰府政庁」や、大陸からの使節などを受け入れた迎賓館「鴻臆館」と同時代に存在していた。その役割分担はいったいどうなつていたのか。
日本書紀には、朝鮮出兵に向けて二万五千の兵が嶋郡(現在の福岡市西区の一郡と志摩町)に駐屯した記録がある。元岡遺跡群を合む古代の嶋郡が「武器も含めた鉄の生産工場で、朝鮮半島に向けた最前線基地だった」との見方は、ますまず強まつている。
埋蔵文化財調査の行われている九大移転予定地は、嶋郡の一部に過ぎない。このことから「嶋郡は独立した世界で、国の意向のもとで鉄を生産していた。遺跡群の意義付けは、嶋郡の地域全体の中で行う必要がある(八木充・京都学園大学教授)と、広い視野で調査研究を望む声もある           

元岡遺跡 鴻臚館 大宰府関連年表
592
馬子、崇酸天皇を殺害
593
聖徳太子、推古女帝の摂政に
603
冠位十二階を制定
607
法隆寺建立
大化
645
大化改新律令国家の形成へ
白雉
652
班田収授の法を施行
663
白村江の戦いで日本、百済の連合軍敗れる
朱鳥
688
筑紫館(鴻臆館の前身)で新羅国便もてなす
(文献に筑紫館が初登揚)
694
藤原京に遷都
大宝
701
大宝元年。大宝律令制定。大宰府諸制度を整備
和銅
710
平城京に遷都
天平勝宝
753
唐僧鑑真、大宰府にくる
延暦
784
長岡京に遷都
785
全国に世帯調査徹底を命令(元岡遺跡で関連木簡が出土)
794
平安京に遷都
(2000/10/26 西日本新聞記事)

2000年発掘ベスト10
西谷正・九州大教授選順不同)
◆全国
元岡遺跡群 (福岡市)奈良時代。製鉄跡、「大寶元年」木簡など出士
水迫遺跡 (鹿児島県・指宿市)旧石器時代。定住跡
加茂遺跡 (石川員・津幡町)平安目封t前期。農民の心得を書いた榜示札(立て札)出土
青谷上寺地遺跡 (鳥敢具・青谷町)弥生時代〒麦期。殺傷痕などが残る約65体の人骨出土
植山古墳 (奈良鯉具・橿原市)古墳時代後期。推古天皇と竹田皇子の合葬墓か?
新官神杜遺跡 (滋賀県・信楽町)奈良時代。聖武天皇紫香楽宮跡か?
申ツ原遺跡 (埼玉県・茅野市)縄文時代後期。高さ35センチと最大級の仮面土偶が出土
花野谷古墳群 (福井市)古墳時代前期。割竹形木棺内から前漢鏡と三角縁神獣鏡が出土
今城塚古墳 (大阪府・高槻市)安土挑山時代。慶長伏見地震跡
出雲大社本殿跡 (島根員・大社町)平安時代。高層神殿跡。高さ約48メートルという大社の伝承裏付け
(2000/12/23 西日本新聞)

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