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福岡市教育委員会文化財部 大規模事業等担当元岡遺跡調査事務所 819-0385 福岡市西区元岡474-1 |
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福岡市西区元岡遺跡群 福岡市西区の元岡遺跡群の第20次調査で発見。 福岡市西区の九州大学移転用地内で、元岡遺跡群の発掘調査を進めている同市教委は10月23日、古代の役所が存在したことを示ず多数の木簡が出士した、と発表した。木簡には律令制度の最初の年号である「大寶(宝)元年」(七○一年)の記載があるものや、朝廷が、延暦四(七八五)年に全国に発した勅含の一部もあった。 製鉄管轄の役所が存在? 日本書紀によると六○二年、朝鮮出兵にむけて二万五千の兵が筑紫の嶋郡に駐屯。白村江の戦い(六六三年)で敗れた後も二度出兵が計画されており、嶋郡が継続的に軍事拠点となっていた可能性は高いという。 愛媛大教授の村上恭通助教授(考古学)は「短期間に集中して固形式の製鉄炉を設けたのが特色。大量の鉄を作る急を要した事情があった」と推測する。 第二十次調査地点では、ちゆ甲冑を貫ける鋭利な鉄製やじりが数種出土。武器を生産していたとの見方もある。今回見つかった木簡には、正倉院文書の中に現存する最吉の戸籍「筑前国嶋郡戸籍川邊里」(かわべり)に見られる「難波部」(なにわべ)「額田部」(ぬかたべ)などと一致する人名もあった。川邊里は同遺跡近辺の古地名とされる。古代の大家族制の様相を記す貴重な戸籍と一致する木簡の記述は、須恵器や士器、げた、おけ、くし、琴柱(ことじ)(琴の弦を張る道具)といった遣物とともに、当時の暮らしをしのばせる。 元岡遺跡群はこれまで役所跡とは推定されていなかったが、第二十次調査地点では、役人の職名などを記した墨書土器、硯(すずり)役人が身につけた帯金具も出士。八木充京都学園大教授(日本古代史)は「大宰府との関係や外交施設である鴻腫館との役割分担も考えるべきだ」と指摘する 出るか大型建物 大規模製鉄を営んだとみられる九州大学移転予定地の元岡遺跡群(福岡市西区)で、年号記載の木簡としては国内最古の「大寶(宝)元年」(七○一年)木簡が出土し、注目されている。
小田富士雄・福岡大学教授(考古学)は「まだ調査は入り口という感じだ」と現地で感想を語つた。
元岡遺跡群は「お宝」の木簡が、今後も続々と出士する条件を備えている。一つに、後世の開発の手があまり入っていない点が挙げられる。第二十次十次調査地点の木簡は、幸運にも現在の地表からわずかご30から120cm深さで見つかった。そして豊富な水だ木簡は水に浸った状態でないと残らない。平和台球場跡地の「鴻艦館」跡ではトイレ遣構の穴から見つかつている。木簡だけでなく、1200年以上前の鉄製やじりも、水に包まれたことが錆の進行を遅らせ、手でさわれるほどの状態で残っていたという。古代では製鉄に使われた水が、今に足跡を残す“保存液“になつたわけだ。 元岡遺跡群の大規模な官営の製鉄施設」は、九州全域を統括し、大陸との外交、軍事をつかさどった「大宰府政庁」や、大陸からの使節などを受け入れた迎賓館「鴻臆館」と同時代に存在していた。その役割分担はいったいどうなつていたのか。 |
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(2000/10/26 西日本新聞記事) |
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2000年発掘ベスト10 西谷正・九州大教授選順不同) ◆全国 元岡遺跡群 (福岡市)奈良時代。製鉄跡、「大寶元年」木簡など出士 水迫遺跡 (鹿児島県・指宿市)旧石器時代。定住跡 加茂遺跡 (石川員・津幡町)平安目封t前期。農民の心得を書いた榜示札(立て札)出土 青谷上寺地遺跡 (鳥敢具・青谷町)弥生時代〒麦期。殺傷痕などが残る約65体の人骨出土 植山古墳 (奈良鯉具・橿原市)古墳時代後期。推古天皇と竹田皇子の合葬墓か? 新官神杜遺跡 (滋賀県・信楽町)奈良時代。聖武天皇紫香楽宮跡か? 申ツ原遺跡 (埼玉県・茅野市)縄文時代後期。高さ35センチと最大級の仮面土偶が出土 花野谷古墳群 (福井市)古墳時代前期。割竹形木棺内から前漢鏡と三角縁神獣鏡が出土 今城塚古墳 (大阪府・高槻市)安土挑山時代。慶長伏見地震跡 出雲大社本殿跡 (島根員・大社町)平安時代。高層神殿跡。高さ約48メートルという大社の伝承裏付け |
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(2000/12/23 西日本新聞) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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